ヤイロはイエス様に言います。「私の幼い娘が死にそうです。どうかおいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」ヤイロの必死の思いが伝わります。
愛の交わりが、深いほどその人の苦しみは自分の苦しみとなり、自分の心からの思いとしてその人の幸せを願います。だから、私たちには「人ごと」で済ませられるものは、何一つありません。すべての人が愛によってつながった人だからです。
だから私たちは、誰かの幸せを求めて祈る時、その人の「ために」祈るのではなく、その人と「ともに」祈るようになります。その人の苦しみも喜びも、自分も共に担い、祈るのです。イエス様は正に人々と共に生きられました。その生き方は、十字架と復活によって明らかに示されました。イエス様は、十字架によって私たちの苦しみを共に担い、復活によって私たちの喜びを共に分かち合われたのでした。
イエス様にとって大きな悲しみは、イエス様と共に祈る者があまりに少ないことでしょう。残念ながら、イエス様と「ともに」祈るどころか、誰かの「ために」祈ることすら少ないです。イエス様と共に、全ての人の幸せを思い、祈りたいと思います。
京都聖マリア教会