2020年10月16日金曜日

あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる神がほめたたえられますように。キリストの苦しみは満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(2コリント1:3-7)

 苦難と慰め、という言葉を見て、少し考えました。あまりよく分かりませんでした。私もそれなりに、苦しい経験もしてきました。けれどもそれが、すっかり慰められた、と言う経験は、あまりしていないような気がします。慰められなくても、苦しみを抱えて、じっと我慢する、というのが今までしてきたことのような気がします。私は、少し短絡的に考えていたのかもしれません。苦難の慰めは、そんなに早く来るものではないのかもしれません。長い時間をかけた後に、慰めが来る、もしくは、後から慰められていたことに気づく、そんなものなのかもしれません。それまでの間、私たちはじっと我慢しているのです。ただその我慢は、一人でしているのではありません。神様がそばにいてくださるのです。私たちは、苦しみを抱えて、じっと我慢しながら、神様と共に、愛の道を歩んでゆくのです。我慢の先には、必ず神様の豊かな慰めがあります。



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