2020年10月10日土曜日

主の望まれることは、その僕の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。(イザヤ52:13-53:12)

 歳を取って、忘れっぽくなりました。少しずつ、生活に不便が出てきています。悩んでも仕方のないことですから、忘れっぽくなったことすら、忘れてしまおうかと考えています。忘れることは、決して悪いことばかりではありません。思い出すと苦しいような過去は、できれば忘れてしまいたいものです。反対に自分が成功したことや称賛を受けたようなことも、それにとらわれてしまわないために、それなりに忘れた方が良いのでしょう。また、人を愛することは、自分のことを忘れて他者のことに思いと行いを集中することでもあります。愛するために、自分のことを忘れることもあるのでしょう。イエス様は、十字架にかけられました。人々から罵られ、弟子たちから見捨てられました。けれども復活された時、イエス様はそれらのことをすっかり忘れて心の底から人々を愛しておられるように見えます。愛した分だけ忘れてゆくようなことがあるのかもしれません。


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