イエス様は「時」と言う言葉を、たびたび使われます。それは、十字架にかかる時でした。これは、人類の救いから見れば待ち望んでいた時ですが、イエス様個人とすれば、試練と苦しみの時です。けれどもイエス様は、この時を自分にとって最も大切な時として、受け入れられたのでしょう。私達一人一人にとっても、大切な時があるのかもしれません。それは必ずしも、自分が得をする時ではないのかもしれません。それでも、自分でないと担えない時なのでしょう。自分の時を受け入れるには、祈りと深い愛が必要な気がします。
京都聖マリア教会
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