2023年1月15日日曜日

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのは誰ですか」と言った人である。…これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。(ヨハネ21・20-24)

かわいい!かっこいい!

映画『バンブルビー』から



 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのは誰ですか」と言った人である。…これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。
(ヨハネ21・20-24)

 人気作品、「トランスフォーマー」物語に連なる映画です。遥か彼方の宇宙で戦っていた正義の機械生命体が、地球にやって来ます。彼は、戦いの中で大きく傷つきました。偶然正体を知られた地球人の少女と共に、地球まで追ってきた邪悪な敵と戦うのです。
 幼稚園児の保護者の方にこの映画のDVDをお貸ししたら、なんと!子どもの方がハマってしまいました。何度も何度も見て、セリフを覚えるほどだそうです。その子の今の悩みは、「クラスの中で、この映画の話ができるお友達がいない…」だそうです。決して「子ども向け映画」ではないのですが、子どもをも惹きつける魅力を持つ映画であるのは間違いありません
 その子に「どこがおもしろいの?」と聞いてみました。答えは、「可愛いところ!」でした。確かに大型トラックや高速戦闘機が変形する機械生命体に比べると、黄色い中型自家用車が変形するバンブルビーは穏やかですが、それでも、装甲の間から機械の部品が見え、手には恐るべき威力の武器が取り付けられている姿は、勇ましいものです。彼の可愛らしさは、姿ではなく、しぐさや、生き様から来ているように思います。不器用だけれども、何とかして自分の意志を、仲間の少女に伝えようとするところに誠実さを感じます。いつも彼女を見つめ、彼女から離れない姿に、深い結びつきを感じます。そして何より、何があっても彼女に寄り添い、危機が迫ると、自分の身を挺してでも彼女を護る姿に、強い愛を感じます。
 誠実さ、結びつき、愛、この姿はイエス様と一緒だと気づきました。イエス様も私たちと誠実に向き合い、結びつき、十字架に掛かってまで私たちを守り、この上ない愛を示してくださいました。さすがにイエス様を、「可愛い」と呼ぶのは、おこがましいように思います。イエス様なら「かっこいい!」でしょうか。可愛い、と、カッコいい、は、表裏一体のものなのかもしれません。
 さて、イエス様から見た時、私たちは「可愛い」存在でしょうか。イエス様に誠実に向き合い、イエス様に従っているでしょうか。誠実な愛を生きたいと思います。

2022年12月6日火曜日

ヨハネは・・・自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」(マタイ11・2-6)

 笑ってよ、僕のために。


映画『パッチ・アダムス』から

ヨハネは・・・自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」(マタイ11・2-6)

 実在のお医者さんの生涯を映画化した作品です。彼は、自分が入院したときの体験を通して、病人の回復のためには、「笑い」が非常に効果的であることを確信します。彼は医大に進み、患者さんの前で、まるで道化師のようにおどけ、笑わせます。そこから彼は、厳しい医療行政に苦しむ患者さんのために、無料の診療所を作り、仲間たちと共に、懸命に活動していきます。
 「笑い」を大切にしたお医者さんを演じたのは、稀代のコメディアンであり俳優のロビン・ウィリアムズです。彼の抜群の芸と笑顔、その瞳の奥に燃える情熱の炎、聞く人々の心を揺さぶる演説は、映画の観客をも癒してくれるかのように力強いです。
 このお医者さんの生涯は、まるでイエス様みたいだなと思いました。目の前の患者さんのために自分の力と心を全て使う姿、自分の立場よりも患者さんの救いを何より優先する姿、そして周囲の人々の無理解によって厳しい迫害を受ける姿など、どれもイエス様のようです。彼は、医師免許を持たずに治療していると告発された時、次のように弁明します。「私がしているのは、苦しみ、助けを求める者に、家のドアを開き、勇気づけ、熱が下がるように冷たい布を当てることです。それを治療行為と呼ぶなら、私は有罪です。」「病気と闘う場での一番の敵は無関心です。」これらの言葉は、イエス様の愛の教えと、全く合致するものです。
 私はこの映画を見ながら、「もしかしたらイエス様も人々に『笑い』を与えたのかもしれない」と思いました。そう思いながら聖書を読むと、新たなイエス様の姿が見えてきました。権力者を風刺したり、野の花空の鳥を、まるで王様、女王様のようにおどけて扱ったり、屋根に空いた大きな穴を見て大笑いしたり、「右の手の業を左の手に知らせない」パントマイムをしたり。そして十字架の上でさえ、「地面より高い分、天国に近いね」と隣の犯罪人に話したり、「こんなに曝されたら、カラカラに乾いてしまう」と言ってみたり、そして復活の時も「おはよう!こんにちは!こんばんは!」とおどけてみたり。
 イエス様は、笑わせるにしても、そうじゃないにしても、自分の命を全て用いて、人々の救いのために、懸命に生きられました。これは、間違いありません。

2022年11月29日火曜日

イエスは言われた。「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)

  50歳ごろから、「いつか自分も死ぬ」という当たり前の事を、改めて意識するようになりました。平均寿命から考えて、あと20~30年は大丈夫でしょうが、分かりません。明日、突然召されるかもしれません。だから、いつ召されてもいいように、後悔しない生き方をしたいと思っています。いつか分からないからこそ、今の命を大切にしたいと思います。

2022年11月28日月曜日

神は言われる。「私は初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。」(黙示録21:5-7)

 検診で、内臓の調子が少し悪いことが分かりました。「どうしかたら良いですか」と聞きますと、「水をたくさん飲んでください」と言われました。知らぬ間に、内臓が脱水を起こしていることがあるのだそうです。私たちの魂も、知らぬ間に渇いているかもしれません。イエス様という命の水を飲みましょう。

2022年11月27日日曜日

イザヤ書2:1-5   ローマの信徒への手紙13:8-14   マタイによる福音書24:37-44

 「人の子は、思いがけない時に来るからである。」人の子が来る、と言うのは、神の国の実現のことであり、それは終末、つまり世界の終わりを指しています。「世の終わり」と言うと、世間のカルト宗教が良く口にすることもあって、眉唾ものの、胡散臭いもののように感じるかもしれません。けれどもキリスト教は、明らかに、終末を信じる宗教です。私たちが望もう望むまいと、終末は必ず来る、ということを、心に留めておく必要があります。

 最近の災害や戦争の状況を見ると、聖書で書かれているよりも厳しく恐ろしいことが起こるかもしれません。私たちは、自分が考え得る最悪の予測をして、物事に対処すべきかもしれません。

 けれども同時に、私たちは、苦しみの後には、必ず神様の救いがあることも信じなければなりません。イエス様の十字架の後に、イエス様のご復活があったように、苦しみや混乱の後には、必ず神様の救いがあるのです。それも、私たちの想像しうるよりも、もっと大きく素晴らしいものです。イエス様は、御自分の十字架を予測しておられました。それはイエス様にとっては、最も苦しい予測でした。イエス様は、十字架の後に復活があることも予測しておられました。それは、イエス様にとっても、想像を超えた最高の喜びだったのでしょう。

 私たちは、最悪の予測と、最高の希望をもって、愛の道を歩みたいと思います。

2022年11月26日土曜日

喜び歌え。今、私は来て、あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。(ゼカリヤ2:14-17)

 村の真ん中には、教会やお寺や神社があります。家の真ん中には、仏壇や祭壇や祈りの場所があります。私たちの心の中には、神様がおられます。あなたと私の間に神様がおられる。みんなの交わりの真ん中に神様がおられる。嬉しい時も悲しい時も、神様はいつも真ん中におられ、私たちを愛して下さっているのです。

2022年11月25日金曜日

十字架の上で、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:33-34)

  十字架で、イエス様が私たちの罪を贖ってくださった、と言います。少し難しい教えです。ただただ素直な視線で、聖書を読んでみると、そこには、イエス様の大きな愛がありました。十字架で苦しみながらも、人々のために、神様にお祈りしておられました。十字架には、恨みも、裁きも、憎しみもなく、ただただイエス様の愛がありました。