この言葉には、イエス様の苦労が偲ばれます。荒れ野のキツネや、空を舞う鳥をさえうらやむほどに、心身ともに休む間もなき宣教の日々を、イエス様が過ごされていたことを心に留めます。神学校の入学試験の時に、志望動機を書くところがあり、私はこの聖句を記しました。私は、イエス様のなさった苦労を、自分もしてみたいと書いたのです。私にとって教会は、徹頭徹尾、楽しい所でした。教会で過ごす日々は楽しく、その楽しさの中から、牧師になりたいと思ったのです。周りから、「牧師の仕事は大変だ」と聞き、また聖書にはイエス様の苦労が記されています。けれども私には、その苦労が理解できなかったのです。一人前の牧師になるために、それ相応の苦労が必要なのであれば、それを理解し、自分も経験したい、と思っていたのです。随分と呑気な人間だったと思います。牧師になって、ある程度の時間が経ちました。それなりの経験も積みました。けれども、まだ、牧師の苦労は分かりません。十分な仕事をしていないのだと思います。もしかしたらまだまだ私は、楽しいことが多すぎて、呑気に過ごしているのかもしれません。自分がすべき苦労を、周りに押し付けているだけなのかもしれません。それとも、神様に仕える道は、楽しいことだらけなのかもしれません。苦労なさってこられたイエス様に叱られるかもしれません。神様と人々に仕える道を、しっかりと歩んでゆきたいと思います。
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