2020年10月30日金曜日

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(マルコ10:17-22)

「天然」という言葉があります。これは、その本来の意味ではなく、人間関係の中で用います。ある人が、何か周囲とは違う言動をして、それが、少し人に誤解を与えたり、少し人が不快に感じそうになったり、少し人がびっくりするようなもので、その上で、その人に何の悪気もなく、自分に正直に行動した結果であるときに、「天然だなぁ」なんて言ったりします。この言葉には、その人の言動によって被った少しの驚きやほんの僅かな被害を、無効にし、その人を許容する思いも含まれています。イエス様は、金持ちの青年に出会われました。彼は何の悪意もなく、正直な思いで、イエス様の教えに従うことができなっかたのです。部分的に財産を施すなどの現実的な対処を、彼はすることができませんでした。イエス様の言葉を、額面そのままで受け取ることしかできませんでした。その意味で、彼は「天然」でした。そんな彼を、イエス様は慈しまれました。きっと彼は後日、イエス様に従ったことでしょう。本当に全ての財産を施したのかもしれません。別の方法を行ったのかもしれません。けれどもきっとそれは、イエス様を喜ばせ、人々を微笑ませるものだったでしょう。「天然」の別の意味は、人々を和ませるところにもあるのです。


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