キリスト教の界隈では、「救われた」と言う言葉が、よく聞かれます。あるグループでは、「救われた」ということを、「信仰を持った」「洗礼を受けた」と同じ意味で使っています。その意味では私も救われているはずなのですが、どうもその実感はありません。どうやら、救い、というものには2種類あるようです。客観的なものと主観的なものです。客観的なものは、洗礼や信仰の交わりなどを通して与えられるもので、主観的なものは、自分自身の心の納得や確信によって得られるものなのでしょう。この二つが一致すれば、私たちは最も幸せを感じられるんでしょうけれども、それはまだ先の話のようです。ただ、聖書を記した人々は、神様の救いを確信していました。神様が全ての人を愛されたこと、イエス様が全ての罪を贖われたこと、それによってすべての人が既に救われていることを確信していました。私たちはまだそのことを実感できていませんが、いつか分かる日が来るのだと思います。
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