祈りは続くよ、どこまでも
映画『メランコリア』から
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8・26)
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。(マルコ15・37)
彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(ヨブ2・13)
幼稚園の保護者の方の著作に紹介されていましたので、見てみました。「巨大惑星が地球に衝突して、地球は消滅する」という物語です。いわばSF映画なのですが、とても静かで、「芸術映画」と呼ぶべき美しい映像が連なっていました。描かれるのは、数名の主人公たちの日常生活です。前半は、絡みつくような気だるさに苦しめられ、日常生活が緩やかに崩壊していきます。後半は、巨大惑星の接近に怯えつつ、希望と絶望の中で日々の生活を送ります。世界の終焉を前に、悲しみに暮れる者と、反対に解放されていく者が、同じ小さな交わりの中で生きています。
世界滅亡の危機を描いた作品はたくさんありますが、そのほとんどが、どこかに「逃げ道」のあるものです。直前に危機を回避したり、別天地へ逃げ出したり、果ては「実は夢でした」で解決したりします。けれども今作は、どこにも逃げ道がなく、滅亡が避けられないのです。主人公だけでなく観客も不安と絶望、息苦しさを感じます。すべてが滅亡する中で、何が残るというのでしょうか。私は映画を見ながら、最後に「祈り」を感じました。全てが滅亡する中で、それこそ祈る人すらいなくなってしまう状況の中で、それでも「祈り」は最後まで存在している、そのように感じました。
私たちにとって、祈りは身近なものです。私たちは多くの場合、手を合わせ心を静め、口に出してか心の中でか、神様に呼びかけ、恵みに感謝し、願いを伝え、主の御名を通して、神様に祈りを捧げます。けれども祈りは、言葉だけでなく、何かを願望し成就を欲するだけではなく、もっと深いものです。言葉にならない叫びや呻きも、祈りになり得ます。祈りは、誰かとの、神様との、世界との、交わりです。心を他者に向けること、それ自体が既に祈りです。祈りは、様々な制約を乗り越え、存在します。行き場のない「袋小路」のことを、英語で「DeadEnd」と言いますが、祈りは袋小路にさえも活路を見出し、Deadを新たなLife(命)に変えてくれます。天地創造の際、「光あれ」の言葉の前に、神様の言葉にならない祈りがあったのでしょう。世界の終わりには、「主イエスよ来てください」の言葉の後に、アーメンの心に込めた祈りがあるのでしょう。初めから終わりまで、世界は祈りで満ちているのです。