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2022年4月29日金曜日

彼らは、「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。(創世記11:4)  イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの意志もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)

どこまでも求道者。


映画『サンダーバード、ゴーゴー』から



 彼らは、「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。(創世記11:4)

 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの意志もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)

 「サンダーーバードーー!」すぐに主題歌が口から出てきます。ご存じ、人形劇のSF、メカニック、冒険、アクション、サスペンス、てんこ盛りのテレビ番組です。広い世代の多くの人々が、夢中になったことでしょう。それが新作となって劇場公開されました。
 この作品の魅力は、なんといってもメカの数々でしょう。一号から五号までのサンダーバードを初めとして、「国際救助隊」として人々を助けるための、用途に合わせたメカ、また、ロケットや超音速旅客機など、未来社会を彩る多様なメカがいっぱい出てきます。どれもこれも、格好いいうえにリアルで、その後のSF作品に多大な影響を与えました。
 新作映画を見ていましても、メカの魅力は十分に出ていました。けれども、やはり時代的な古さも感じました。製作者も、わざと、60年前の人びとが思い描く未来を意識したデザインにしているように見受けられました。つまりは「レトロ」な格好良さなのです。この格好良さは、未来への「夢」の格好良さのように感じました。まだまだ手が届かない未来的な技術を夢見て、その実現こそが人類の明るい未来を切り開く、という「夢」をメカに込めているように感じました。
 現在は、当時想定されたものよりも、はるかに高度な技術をもった機械が、いっぱい、しかもとても身近にあります。けれども技術の向上は、生活を便利にしただけでなく、環境問題など様々な課題も私たちにもたらしました。未来は、明るいだけでなく、難しいものにさえなったのです。
 人類は、ずっと技術を発展させてきました。けれども同時に聖書では、信仰こそが私たちを救ってくれると教えてきました。「技術か信仰か」という二者択一は、現実的ではありません。技術は、人類の幸せに貢献する力を持っています。私たちは、お互いへの愛、信頼、希望を基盤にして、技術を適切に用いていかなければならないのです。どれほど技術が発展しても、私たちはどこまでも、全ての人の平和を求めて、愛の道を歩む、求道者であり続けるのです。 

2022年4月10日日曜日

イザヤ書45:21-25   フィリピの信徒への手紙 2:5-11   ルカによる福音書23:1-49

イエス様は語り掛ける。

   イザヤ書45:21-25

  フィリピの信徒への手紙 2:5-11

  ルカによる福音書23:1-49



 本日は、復活前主日です。福音書の内容は、イエス様の受難の様子です。今日は、この福音書をじっくりと読んで、黙想したいと思います。この福音書の箇所を、各自で黙読してください。そして、今、自分がこの場面の中に居ると思って黙想してください。今、目の前に十字架がある、今、自分の耳にイエス様の声が聞こえてくる、そう思って、黙想してください。十字架は、単なる客観的事実ではありません。私達一人一人の救いの出来事です。十字架は決して「人ごと」ではありません。私たちの魂に直接関わる出来事なのです。何かの言葉で説明して、それで納得したような気分になるのではなく、自分がその場に居て、直接十字架を目撃しているつもりで、黙想しましょう。

 ただ、一言だけ、黙想の手引きとしてお話しします。

 本日の福音書を読んでいると、イエス様が、最後まで人々に語り掛けておられることに気付きます。厳しい尋問を受けているときも、重い十字架を運んでいるときも、誰かに語り掛けておられます。きっとイエス様はその時、人々と語り合う体力は残されていなかったでしょう。イエス様は最後の力を振り絞って、人々に語り掛けられるのです。それほどイエス様は、私たちとの対話を大切にされるのです。イエス様と私たちの間で、語り掛け、耳を傾け、相手の言葉に応えるという、この対話が、救いに決定的に大切なのだと、イエス様は私たちに教えてくださっているのです。

 イエス様は、今、この時に、私達一人一人に語り掛けてくださっています。イエス様は、この私に、なんと語り掛けてくださっているのでしょうか。そのことを思いながら、黙想しましょう。

2022年4月5日火曜日

すると、父親は言った。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。(ルカ15・31-32)

 愛は一人一人違う。


映画『A.I.』『アイ・ロボット』から



 すると、父親は言った。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。(ルカ15・31-32)

 先月、先々月と、ロボットが関係する原稿を書いたので、気になって仕方なくなり、ロボットを真正面から扱った作品を見てみました。
 「A.I.」は、愛という感情をプログラムされたロボットが、人を愛し、その分、人からの愛を求めて、苦しい旅をする、という物語です。「アイ・ロボット」は、殺人事件の容疑者であるロボットを追う中で、ロボットへの理解が深まっていくお話です。どちらも、行き過ぎた技術開発に警鐘を鳴らしつつ、未来への希望を語る作品です。
 前者は映画界の巨匠スタンリー・キューブリックが、後者はSF界の巨匠アイザック・アシモフが原作です。大きなテーマを深く掘り下げてくれます。
 ロボットを語る、というのは、人間を語る、と言うことなのだと感じました。姿かたちが同じ存在と向かい合うことで、人間との違いは何かを見つめます。言い換えれば、何があれば人間なのか、人間を人間たらしめているものは何なのか、という「人間の条件」を探し求めているのです。結論として、前者からは「愛」を、後者からは「信頼と思いやり」を見出しました。
 愛と信頼と思いやり、これらが人間の特徴だとすれば、それらに共通するものは何かと考えてみました。それは、「一人一人違う」ということです。相手を大事にして、温かい関係を作り出す、というのは、みんな同じです。けれどもそのための愛し方や、信頼の示し方や、思いやりの方法は、一人一人みんな違います。愛は既製品ではないのです。
 様々な情報が錯綜する中で、私たちの人間関係は、「こうあるべき」という圧力にさらされているように思います。けれども人間は一人一人違います。愛し方も違うのです。時には上手くいかない時もあります。その時には、謝り、反省し、やり直すのです。相手を大切にする思いを揺るがさず、具体的な愛し方は試行錯誤してゆくのです。その中で少しずつ互いに愛し合い、互いの思いやりと信頼関係を深めてゆくのです。
 神様は全ての人を愛してくださいます。その愛し方は、一人一人違います。私だけの特別な愛を、神様は私に注いでくださるのです。

2022年3月4日金曜日

すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。(ルカ2・13一4) また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」(黙示録7・11-12)

 歌は世界を救う。


アニメ『ヴィヴィ・フローライト アイズ ソング』から



すると、突然、この天使に天の大群が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。(ルカ2・13一4)

また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように。アーメン。」(黙示録7・11-12)


 昨年の春に放映されたアニメです。とにかく気合の入りまくった作品です。二転三転するストーリー、細かなSF考証、そして、まるで絵画のような細かでなめらかな陰影の付いたキャラクターが、動く!という場面が毎回挿入される作画、どれもこれもすさまじい労力をつぎ込んでいるのが分かります。その苦労が見事に反映された作品です。
 遠い未来、初めて自分で考え行動するロボットとして、主人公は造られました。彼女には使命があります。それは、「歌でみんなを幸せにすること。」彼女の歌は、目の前で歌を聞いてくれる人だけでなく、全人類と、全世界の運命を握るものだったのです。
 先月に引き続き、「歌」がテーマになっています。オリジナルの歌が何曲も作られました。それらの曲は物語の要になるだけでなく、視聴者の心を豊かにします。
 誇張ではなく、歌は、私たちの心と、私たちの世界を救ってくれるもののように、私は思います。歌は、私たちが心を朗らかにしないと歌えません。その経験から、逆に言うと、私たちは歌を歌うと、心が朗らかになるのです。私は「教会に通っててよかった」と思うことがいくつもありますが、そのうちの一つは、歌を歌うことです。教会に来ていなかったら、大きな声で歌を歌うことなど、そうそうなかったことでしょう。教会で歌を歌うことで、私の心は大きく救われてきたのだと思います。
 また、歌は、人と人とをつなぎます。フランスのテゼ共同体では、短い祈りの言葉に美しいメロディーをつけた歌を、何度も何度も繰り返して歌います。それは、国も、背景も、全く違う人々と、一緒になって礼拝をするためでした。何度も繰り返すうちに、多くの人々の心が、一つのお祈りになってゆくように感じます。また、ある有名な歌手は、「全ての武器を楽器に!」と訴えています。武器は増えれば増えるほど、暴力が増し、人々を苦しめますが、楽器は増えれば増えるほど、音楽と歌が増え、和解と一致が増えてゆきます。
 私たちの信仰生活も、歌と共にあります。礼拝では聖歌を歌い、祈りの言葉も時に歌を用いてお捧げします。天使はこの地上でも、天国でも、高らかに賛美の歌を歌っているようです。
 心が苦しい時には、歌を歌ってみませんか。礼拝に来てくだされば、みんなで一緒に歌えます。歌を通して、神様の愛に出会いたいと思います。

2022年1月6日木曜日

すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。(創世記三・七)

恋から愛へ。


赤坂アカ『かぐや様は告らせたい』から

司祭 ミカエル 藤原健久

すると二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。彼らはいちじくの葉をつづり合わせ、腰に巻くものを作った。(創世記三・七)

 人気のマンガです。テレビアニメ化もされ、また人気俳優が出演した実写映画も二作公開されました。
 超優秀な学校の生徒会長と副会長が、互いに好意を抱いています。けれども異常にプライドの高い二人は、自分から告白することを、恋愛における敗北だと思っています。彼らは超優秀な頭脳をフルに用いて、何として相手から自分に告白させようとするのです。
 大好きなのに素直になれない、思いがうまく伝えられない、策士が策に溺れて、混乱して、でもどこかで相手と通じ合う、そんな不器用な恋愛模様が、時に爆笑を巻き起こしながら、読者の心に温かいものを生み出してくれます。
 今作はいわゆる「ラブコメ」です。考えてみれば世の中には、何と多くの「恋愛」にまつわる作品があることでしょう。歌謡曲も、ドラマも、小説も、こぞって恋愛を扱い、小さな子どもからお年を召した方まで、多くの方がそれらを楽しみます。私は今回、「恋愛って何だろう」と考え込んでしまいました。
 聖書を見てみますと、人類最初の恋愛は、アダムとエバの恋愛でしょう。彼らが恋に落ちたのは、「善悪の知識の木」の実を食べた時でしょう。その時初めて「恥ずかしい」と思って、相手を意識したのです。
 ギリシア語で「愛」は、複数の言葉が用いられています。その中で「エロス」は、本能的な愛だと言われています。「エロティック」という言葉もあるように、性、また生殖に関わるものでしょう。それに対して「アガペー」は、神様が人間を愛する愛です。これは、自分の欲望よりも人の幸せを大切にし、相手の幸せのために尽くそうとする愛です。イエス様が教えられる「愛」は、この「アガペー」です。
 恋愛は、相手を求める欲望を昇華させたもの、と言われます。これは「エロス」から「アガペー」へと向かう過程にあるものと言えるでしょう。私たちは、欲望中心の思いから、イエス様の説かれる愛へ向かって歩んでいます。「恋愛」は、神様が私たちを、「アガペー」へと導くために用意して下さったものなのかもしれません。アダムとエバの姿は、私たちの成長の中に、神様がまことの愛への道を用意して下さっていることを、私たちに教えてくれているのでしょう。
 

2021年12月1日水曜日

このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。(ルカ:21:28)

 

ここから始める。

ゲーム『ニーア オートマタ』から


このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。(ルカ:21:28)


 世界中でヒットした、大人気ゲームです。私はこれがしたくて、ゲームを始めたと言っても過言ではありません。操作もしやすく楽しいのですが、残念ながら、私の年齢と体力では、三〇分もすれば「酔って」しまい、長時間楽しむことができません。何度も何度も「セーブ」しながら、少しずつ進めています。

 物語は壮大なSFです。はるか未来、絶滅寸前の人類と、突如現れた異星人が、それぞれアンドロイドとロボットを使って、地球を奪い合う、という物語です。このゲームには、大きな特徴があります。それは「暗い」のです。このゲームには進行の具合で複数の結末があるのですが、どれもかわいそうな、「絶望的」とでもいうべき終わり方をします。けれどもゲームはやっていて、楽しいのです。それは、物語の中に希望があるからです。どんなに絶望的な状況でも、主人公たちは懸命に生きています。仲間を信じ、交わりを愛し、自分の持てる力を用い、少しでも良い未来を切り開こうと努めるのです。周りの状況がどれほど悪くても、主人公たちの誠実な心を曲げることができないのです。

 私たちは今、大変苦しい状況にいます。感染症のまん延が、これほど長引くとは、誰も思っていなかったことでしょう。「元通りになったら、これをしよう」と思いながら、そのことが叶わず、時間だけがじりじりと過ぎていっているように感じます。その中で私たちの頭には、二つの世界が広がっているように思います。一つは現実の世界、もう一つは「本来だったらこうだったであろう」世界です。この二つの世界の間で、心が揺れているように思います。けれども私たちが生きる世界は、一つしかありません。どれほど残念でも、この現実の世界で生きるしかないのです。だから私たちは、今、ここから、新たに始めていきましょう。「元通りになる」のを待つだけではなく、この困難な状況の中で、新たな未来を作り始めていきましょう。

 故国の滅亡や激しい迫害で、初代のクリスチャンたちは大変苦しい生活をしていました。今までの生活から追い立てられた者も、少なくなかったでしょう。その中で彼らは、新たな信仰共同体を作り上げてきました。その歩みにイエス様が共におられたのです。主に信頼して歩みましょう。

2021年11月1日月曜日

母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか。・・・私があなたを忘れることは決してない。 (イザヤ49:15)

世界一の幸せ者 映画『映画大好きポンポさん』から


母親が自分の産んだ子を憐れまないだろうか。・・・私があなたを忘れることは決してない。

(イザヤ49:15)


 映画製作現場を舞台にした映画と聞き、見に行きました。私は思春期の頃、映画製作の仕事に就きたいと思っていた時期がありました。みんなでワイワイガヤガヤと、一つの作品を作り上げていく姿に、あこがれていたのでした。高校の時、映画研究同好会に入り、仲間たちと実際に8ミリ映画を作り、とても楽しかったのですが、自分の才能のなさを痛感し、転向しました。

 この映画の舞台は架空の町ニャリウッド、映画製作が盛んな町です。ポンポさんはまだ若者でありながら、ヒット作を次々と世に放つ敏腕プロデューサーです。彼女の周りには、映画製作に情熱を持つ人々が集まってきます。

 登場人物たちが懸命に一つの作品を作り上げてゆく姿に、私は感動し、号泣しました。何よりみんな、楽しんで作っているのです。撮影には困難もあり、苦労も絶えません。撮影後も監督は、何日も部屋にこもって編集作業をします。時には徹夜もある過酷な作業です。けれども彼は心の中でつぶやくのです。「今、自分は世界で一番幸せな人間だ。」映画製作に集中できることを、最高の喜びと感じているのです。

 そうなのかもしれません。何かを創り出す、とは、喜びを伴うものなのでしょう。私は毎週子どもたち用のカードを描いていますが、こんな小さな物ですら、作っているときは大きな喜びを感じています。

 きっと神様も、喜びながらこの世界を創られたのでしょう。私は今まで、聖書の「天地創造」物語を、何の気なしに読んでいました。神様が、何らかの使命感をもって、何やら難しい顔をして、世界を創っておられるように想像していました。けれどもきっと神様は、喜んでおられたのでしょう。喜びながら世界を創り、被造物を眺めて喜びを新たにし、人間や動植物がこの世界で懸命に生きている姿を、大きな喜びをもって見つめておられるのでしょう。もちろん時には、私達の罪深い行いに怒りを覚え、厳しく罰せられることもあります。それでも神様の喜びは消えることなく、人々が悔い改める時には喜びをもって赦されるのでしょう。

 私たちは、神様の喜びによって創られました。私たちの本質は喜びなのです。自分と互いの存在を喜び、この世界がもっと喜びで満たされるように、愛の道を歩みたいと思います。 

2021年10月3日日曜日

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」・・・弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。(マルコ九・三一-三二)

静かな十字架

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』から

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」・・・弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。(マルコ9:31~32)

 ノーベル賞受賞作家の作品です。映画かもされ、日本でも舞台化、テレビドラマ化されました。以前から関心があったのですが、信徒の方から貸していただき、読んでみました。
 大変美しい作品でした。主人公の独白の形で物語が進みます。描かれているのは、現代に生きる人々の、幼少期から大人までの姿です。みんな懸命に生きています。全寮制の学校の中での成長、青年期の共同生活での葛藤、そして社会に出てからの孤独ともがき、そして愛する者の死・・・。誰もが経験するような物語でありながら、決してそうではない仕掛けがあります。それは、「提供者」の存在です。この世界は、「提供者」たちの命を犠牲にすることによって成り立っている世界なのです。つまりは、私たちとは違う世界の物語、いうなればSF物語です。けれども、「空想の世界」とは言い難い、リアルさ、身近さがあります。現実には存在しない世界の中で、誰もが持っている魂が生きている、そのような作品です。
 読む人によって、様々な面が輝きだす作品だと思います。人々の感情の機微に涙する人、物語の展開に驚き引き込まれる人、湿った空気まで感じるような状況描写に魅了される人、作者の想像力の豊かさに浸る人、等々。
 私の読了感は、「十字架」でした。一部の人びとを犠牲にして回る世界、これはまさしく、十字架を中心に据えた世界です。けれどもこの十字架は、あまりに静かです。犠牲を強いる大多数の人びとも、犠牲を強いられる人々も、この状況の不条理さを通り過ぎているのです。怒りも悲しみも蓋をされ、理性的で抑制された感情だけが顔を出しています。これは何が原因でしょうか。罪を当たり前とする「教育」でしょうか、多数の利益に貢献することを強いる「圧力」でしょうか、それらすべてかもしれません。そしてこれは、必ずしも、空想の世界の出来事ではないのかもしれません。今、私たちが生活している、このリアルな世界も、誰も気づかず気づかせず、大きな蓋で隠された、静かな十字架が、中心に据えられているのかもしれません。十字架が隠された世界は、不安と絶望感に覆われた世界です。十字架をあらわにし、犠牲を強いられている人々を解放し、罪に向き合い正義を貫き、愛に満ちた社会を創り出すときに、私たちは希望と喜びに満たされるのです。 

2021年9月4日土曜日

私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8・26) しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。(マルコ15・37) 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(ヨブ2・13)

 

祈りは続くよ、どこまでも

映画『メランコリア』から


私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマ8・26)


しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。(マルコ15・37)


彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(ヨブ2・13)


 幼稚園の保護者の方の著作に紹介されていましたので、見てみました。「巨大惑星が地球に衝突して、地球は消滅する」という物語です。いわばSF映画なのですが、とても静かで、「芸術映画」と呼ぶべき美しい映像が連なっていました。描かれるのは、数名の主人公たちの日常生活です。前半は、絡みつくような気だるさに苦しめられ、日常生活が緩やかに崩壊していきます。後半は、巨大惑星の接近に怯えつつ、希望と絶望の中で日々の生活を送ります。世界の終焉を前に、悲しみに暮れる者と、反対に解放されていく者が、同じ小さな交わりの中で生きています。

 世界滅亡の危機を描いた作品はたくさんありますが、そのほとんどが、どこかに「逃げ道」のあるものです。直前に危機を回避したり、別天地へ逃げ出したり、果ては「実は夢でした」で解決したりします。けれども今作は、どこにも逃げ道がなく、滅亡が避けられないのです。主人公だけでなく観客も不安と絶望、息苦しさを感じます。すべてが滅亡する中で、何が残るというのでしょうか。私は映画を見ながら、最後に「祈り」を感じました。全てが滅亡する中で、それこそ祈る人すらいなくなってしまう状況の中で、それでも「祈り」は最後まで存在している、そのように感じました。

 私たちにとって、祈りは身近なものです。私たちは多くの場合、手を合わせ心を静め、口に出してか心の中でか、神様に呼びかけ、恵みに感謝し、願いを伝え、主の御名を通して、神様に祈りを捧げます。けれども祈りは、言葉だけでなく、何かを願望し成就を欲するだけではなく、もっと深いものです。言葉にならない叫びや呻きも、祈りになり得ます。祈りは、誰かとの、神様との、世界との、交わりです。心を他者に向けること、それ自体が既に祈りです。祈りは、様々な制約を乗り越え、存在します。行き場のない「袋小路」のことを、英語で「DeadEnd」と言いますが、祈りは袋小路にさえも活路を見出し、Deadを新たなLife(命)に変えてくれます。天地創造の際、「光あれ」の言葉の前に、神様の言葉にならない祈りがあったのでしょう。世界の終わりには、「主イエスよ来てください」の言葉の後に、アーメンの心に込めた祈りがあるのでしょう。初めから終わりまで、世界は祈りで満ちているのです。

2021年8月2日月曜日

霊は私を引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。(エゼキエル 43:5)

 

何て素敵にディストピア

映画『JUNK HEAD』から


霊は私を引き上げ、内庭に導いた。見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。(エゼキエル 43:5)


 「たった一人で七年かけて作ったアニメ映画」と聞いて出かけました。見てみると、製作秘話よりも、映画そのものに引き込まれました。遠い未来、人類は永遠に近い寿命を手に入れ、その分、生殖能力を失っていました。ある時、人類は、悪性のウイルスにより滅亡の危に立たされました。人々は、遠い昔に決別した「地底人」が今も子孫を増やしているという情報を聞き、深い地底に調査員を派遣することにしました。しかしそこは恐ろしいモンスターが闊歩する世界で…。 ディストピアものと言われるSFです。これはユートピア「理想郷」の反対の「暗黒郷」、絶望的な世界です。このような、絶望的な世界を描いた作品は数多く作られています。人々は、崩壊した世界の姿を見て、日常生活での苦しみや不満を晴らしているのだと思います。けれども絶望的なだけではありません。その中に、希望や喜びがあるからこそ、見る人に元気が出るのです。今作でも主人公は、地底世界で命からがらの冒険をしながら、「今まであまり感じなかったけど、生きているという感じがする」と語っています。絶望的な世界を描くことで、日頃見失いそうになっている夢や希望、命の尊さや交わりの温かさ、そして愛が、より鮮やかに輝きだすのでしょう。

 聖書にも、絶望的な世界を描いている箇所は多くあります。ヨハネの黙示録やエゼキエル書、ダニエル書には、悪魔や怪物、世界や秩序の崩壊、信仰者の迫害や殉教が、多くの頁を用いて記されています。これらの書物は、教会や信仰者が、厳しい迫害を受けているときに書かれ、そして現在まで、信仰者が苦しむ時に勇気と励ましを与えてきました。これらの書物は、一見、奇異な印象を与える「けったいな」ものです。けれどもその中には、希望と救いのメッセージが光り輝いています。絶望的な文章の奥に、神様の救いが秘められているのです。私たちの世界も、様々な課題があり、絶望的に感じる時もあります。けれどもこの世界の奥に、神様は救いを備えてくださっています。絶望的な世界の向こうへと導く鍵は、愛です。

2021年7月11日日曜日

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 (マタイ 4:4)

 安堵と希望

ミヒャエル・エンデ『モモ』から


イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

(マタイ 4:4)


 信徒の方から紹介されて読みました。世界的に有名な児童文学です。副題として次のように記されています。「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」。正にそのような物語です。新幹線で早くなったのに、インターネットで早くなったのに、高速道路で早くなったのに、いつまでも、忙しくて時間がないのはなぜだろう。「便利」になったはずなのに、せわしなくて慌ただしいのはなぜだろう、とずっと思っていました。この本を読んで、やっと理由が分かりました。時間泥棒に時間を奪われていたのです。そうだと分かれば、悪い泥棒と戦って、時間を取り戻さなければなりません。

 この戦いに必要なのは、愛です。具体的には、まず、笑顔とユーモアです。これはなかなか難しい!「正確」で「真面目」であることが重んじられる私たちの社会では、笑顔とユーモアは、隅っこに追いやられます。物語の中で、時間を奪われた人々は、孤独感を感じ、不安に駆られます。反対に自分の時間を取り戻した人は、安堵と希望に満ちあふれます。安堵と希望は、カチカチの固いものからではなく、柔らかいものから生まれるような気がします。豊かないのちを取り戻す戦いは、決して楽ではありませんが、まずは、笑顔とユーモアから始めたいと思います。

 今、世界は「環境問題」に深く取り組んでいます。これは、神様が造られたものを大事にしようとすることだと言えます。「時間」も神様が造られたものです。大切にしたいと思います。

 この本を、大急ぎで読むのは、本末転倒でした。まずはじっくりと、この物語を味わいたいと思います。


京都聖マリア教会


https://sites.google.com/view/nskk-org-kyoto-stmaria/main


2021年6月9日水曜日

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ一五・一五)

ともだち      アニメ『宇宙よりも遠い場所』から


わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ一五・一五)


 数年前に放映されたアニメ作品で、このたび再放送されました。

 「宇宙より遠い場所」、それは南極です。母親が南極で行方不明になった高校生を中心に、四人の若者が南極を目指す物語です。それは困難の連続です。それでも彼らは懸命に目標を目指します。その姿に私は、またもや毎回、涙、涙です。

 ある時、彼らは尋ねられます。「あなたたちは友達なんでしょ。」彼らの答えは「違う」でした。実は彼らは、人間関係にトラブルを抱えています。具体的には友達がいません。「南極に行く」との思いを馬鹿にされ続けてきた子、引っ込み思案で何一つ上手にできない子、いじめに遭い高校進学を断念した子、タレント活動で忙しい子、みんな友だちの居ない寂しさを抱えています。そんな彼らは、互いに友だちになって寂しさを埋め合う、と言うことをしません。彼らは決して性格が似ている訳でも、気が合うわけでもなく、もしかしたら仲良しでもないかもしれません。けれども同じ目標をもって共に苦労する者であり、あえて言うなら、仲間、同志なのです。

 改めて考えてみれば、「友だち」とは、随分とあいまいなものです。友だちの定義とは何で、どこからが友だちか、なんて誰にも分かりません。そのようなあいまいな「友だち」に、私たちは随分と振り回されているように思います。私たちが求める理想の「友だち」は、存在しないのかもしれません。けれども振り返ってみれば、私たちには多くの、大切にすべき「仲間」「同志」がいるのです。

 イエス様は私たちを、「友」と呼んでくださいます。この「友だち」も、随分と特殊なものです。イエス様は私たちの罪の贖いのために十字架に掛かり、私たちにも「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われます。そんな「友だち」なんて、聞いたこともありません。イエス様は、私たちと一緒にお茶を飲んだり、愚痴を言い合ったり、遊びに行ったりはされないでしょう。けれども私たちが苦しみ悩む時には、必ず共に居てくださいます。イエス様は「救い主」と呼ばれる友だちなのです。

2021年4月28日水曜日

私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。 (ローマ7・15~20)

訳の分からないもの。


トリガー制作『キルラキル』から


私は自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
(ローマ7・15-20)

 数年前に放映されたアニメ作品です。久しぶりに見たくなって鑑賞しました。荒んだ生活をしていた少女がたどり着いたのは、巨大な学園都市。そこでは生徒会長が絶対的な権力を持ち、特殊な力を持つ「制服」を使って生徒を支配していた。少女は会長との戦いの中で、思いもしなかった秘密に導かれていく・・。
 アニメ制作が派手な演出で有名なプロダクションです、拳一発で周りが吹き飛び、剣の一閃で何百人もが薙ぎ払われます。その上登場人物も「昭和」の「任侠モノ」のような、外連味たっぷりの立ち居振る舞いです。ハチャメチャぶりが、面白くて仕方ありません。
 主人公も会長も、自分の「正義」に基づき、自分の「使命」のみに忠実な人物です。しかし彼らの周りには、有象無象の人々が絡み合います。彼らは主人公たちを慕ってはいるのですが、いつも焦点はズレていて、そのくせ体力だけは妙にあるので、結局状況を混乱させ、主人公たちの邪魔をすることになるのです。ハチャメチャな行動に、主人公たちは戸惑いながら、けれども最終的には、この「訳の分からなさ」に救われていることに気づきます。ストイックな生き方から漏れ落ちていた優しさや自分の命大切さ、「誰かを守りたい」という気持ちや誰かと一緒に居る喜びを、この訳の分からなさから得ていたのでした。
 高度に発展したこの社会において、私たちは「合理的」に生きている、と思っています。けれども私たちの中にも、「訳の分からないもの」が一杯あります。例えば、私たちの「心」は、自分で完全にはコントロールできません。時には様々な思いが渦巻き、振り回されるときもあります。けれども、私たちは心を捨ててしまおうとは思いせん。心は人間に必要不可欠だからです。私たちは、自分が思っている以上に、訳の分からないものと共に生きているのです。きっと神様がそのように人間をお造りになったのでしょう。非合理的なものの中に真理を潜ませ、なかな真っ直ぐに進まない人生の中に、豊かなお恵みを用意して下さっているのでしょう。イエス様は、人間の訳の分からなさを、十字架によって、永遠の命につながる良いものに変えてくださいました。訳が分からないからこそ、人生は素敵なのかもしれません。

2021年4月2日金曜日

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。 ( ルカ 9:22 )

 誠実に      吾峠呼世晴『鬼滅の刃』から


人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。

( ルカ 9:22 )


 ブームはまだまだ収まる様子はありません。米国ではアカデミー賞に推薦されようとするほどの勢いです。自粛期間中でも日本経済をけん引してきました。子どもたちのかばんには登場人物のマスコットがぶら下がり、マスクすら主人公の着物の柄だったします。先日、道を歩いていると子どもたちが、「枯葉の呼吸!」「百の型!」とか、主人公の技を自分流にどんどん増やして遊んでいました。 

  名作の条件は、様々な人々が様々な立場から楽しめる、というところにもあるのでしょう。主人公のカッコよさや主人公の妹の可愛さを好む人、必殺技とアクションを楽しむ人、「鬼」が闊歩する暗い雰囲気に惹かれる人、今まであまり取り上げられてこなかった「大正」という時代に興味を持つ人、自分も同じようなマンガを描きたい人、アニメ化、小説化された作品から導かれた人、様々な人々がこの作品に出合い、楽しんできました。

  私も楽しみました。アニメを見て、原作を読み、涙をズバズバ流してきました。私が惹かれたのは、「誠実さ」です。登場人物はみんな真っ直ぐです。鬼を倒す人も、倒される鬼も、みんな自分の道をまっすぐに歩みます。妥協や懐柔などは入り込みません。作品そのものも誠実です。よくある「正義の味方は負けない」という展開はありません。鬼が強い分、正義の味方も容赦なく傷つき、命を落とす者も少なくないのです。このように誠実な作品だからこそ、感動し、大きな希望を感じることができるのでしょう。

 イエス様も誠実に生きられました。神様の愛の道を、まっすぐに歩まれました。十字架と復活は、誠実さのしるしです。きっとイエス様は、宣教活動の初期から、御自分の十字架を覚悟しておられたことでしょう。このまま神様の愛に誠実に生きれば、世の権力者たちと衝突することは明らかだったからです。妥協し、懐柔策に乗れば、十字架は避けられたことでしょう。けれどもイエス様は、誠実さを崩されませんでした。だからこそ、ご復活の出来事があったのです。誠実な生き方は、十字架と、そして復活へとつながります。誠実に歩みましょう


京都聖マリア教会


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