どこまでも求道者。
映画『サンダーバード、ゴーゴー』から
彼らは、「さぁ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。
イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。
「サンダーーバードーー!」すぐに主題歌が口から出てきます。
この作品の魅力は、なんといってもメカの数々でしょう。
新作映画を見ていましても、メカの魅力は十分に出ていました。
現在は、当時想定されたものよりも、
人類は、ずっと技術を発展させてきました。
どこまでも求道者。
イエス様は語り掛ける。
イザヤ書45:21-25
フィリピの信徒への手紙 2:5-11
ルカによる福音書23:1-49
ただ、一言だけ、黙想の手引きとしてお話しします。
本日の福音書を読んでいると、イエス様が、最後まで人々に語り掛けておられることに気付きます。厳しい尋問を受けているときも、重い十字架を運んでいるときも、誰かに語り掛けておられます。きっとイエス様はその時、人々と語り合う体力は残されていなかったでしょう。イエス様は最後の力を振り絞って、人々に語り掛けられるのです。それほどイエス様は、私たちとの対話を大切にされるのです。イエス様と私たちの間で、語り掛け、耳を傾け、相手の言葉に応えるという、この対話が、救いに決定的に大切なのだと、イエス様は私たちに教えてくださっているのです。
イエス様は、今、この時に、私達一人一人に語り掛けてくださっています。イエス様は、この私に、なんと語り掛けてくださっているのでしょうか。そのことを思いながら、黙想しましょう。
愛は一人一人違う。
歌は世界を救う。
恋から愛へ。
世界中でヒットした、大人気ゲームです。私はこれがしたくて、ゲームを始めたと言っても過言ではありません。操作もしやすく楽しいのですが、残念ながら、私の年齢と体力では、三〇分もすれば「酔って」しまい、長時間楽しむことができません。何度も何度も「セーブ」しながら、少しずつ進めています。
物語は壮大なSFです。はるか未来、絶滅寸前の人類と、突如現れた異星人が、それぞれアンドロイドとロボットを使って、地球を奪い合う、という物語です。このゲームには、大きな特徴があります。それは「暗い」のです。このゲームには進行の具合で複数の結末があるのですが、どれもかわいそうな、「絶望的」とでもいうべき終わり方をします。けれどもゲームはやっていて、楽しいのです。それは、物語の中に希望があるからです。どんなに絶望的な状況でも、主人公たちは懸命に生きています。仲間を信じ、交わりを愛し、自分の持てる力を用い、少しでも良い未来を切り開こうと努めるのです。周りの状況がどれほど悪くても、主人公たちの誠実な心を曲げることができないのです。
私たちは今、大変苦しい状況にいます。感染症のまん延が、これほど長引くとは、誰も思っていなかったことでしょう。「元通りになったら、これをしよう」と思いながら、そのことが叶わず、時間だけがじりじりと過ぎていっているように感じます。その中で私たちの頭には、二つの世界が広がっているように思います。一つは現実の世界、もう一つは「本来だったらこうだったであろう」世界です。この二つの世界の間で、心が揺れているように思います。けれども私たちが生きる世界は、一つしかありません。どれほど残念でも、この現実の世界で生きるしかないのです。だから私たちは、今、ここから、新たに始めていきましょう。「元通りになる」のを待つだけではなく、この困難な状況の中で、新たな未来を作り始めていきましょう。
故国の滅亡や激しい迫害で、初代のクリスチャンたちは大変苦しい生活をしていました。今までの生活から追い立てられた者も、少なくなかったでしょう。その中で彼らは、新たな信仰共同体を作り上げてきました。その歩みにイエス様が共におられたのです。主に信頼して歩みましょう。
映画製作現場を舞台にした映画と聞き、見に行きました。私は思春期の頃、映画製作の仕事に就きたいと思っていた時期がありました。みんなでワイワイガヤガヤと、一つの作品を作り上げていく姿に、あこがれていたのでした。高校の時、映画研究同好会に入り、仲間たちと実際に8ミリ映画を作り、とても楽しかったのですが、自分の才能のなさを痛感し、転向しました。
この映画の舞台は架空の町ニャリウッド、映画製作が盛んな町です。ポンポさんはまだ若者でありながら、ヒット作を次々と世に放つ敏腕プロデューサーです。彼女の周りには、映画製作に情熱を持つ人々が集まってきます。
登場人物たちが懸命に一つの作品を作り上げてゆく姿に、私は感動し、号泣しました。何よりみんな、楽しんで作っているのです。撮影には困難もあり、苦労も絶えません。撮影後も監督は、何日も部屋にこもって編集作業をします。時には徹夜もある過酷な作業です。けれども彼は心の中でつぶやくのです。「今、自分は世界で一番幸せな人間だ。」映画製作に集中できることを、最高の喜びと感じているのです。
そうなのかもしれません。何かを創り出す、とは、喜びを伴うものなのでしょう。私は毎週子どもたち用のカードを描いていますが、こんな小さな物ですら、作っているときは大きな喜びを感じています。
きっと神様も、喜びながらこの世界を創られたのでしょう。私は今まで、聖書の「天地創造」物語を、何の気なしに読んでいました。神様が、何らかの使命感をもって、何やら難しい顔をして、世界を創っておられるように想像していました。けれどもきっと神様は、喜んでおられたのでしょう。喜びながら世界を創り、被造物を眺めて喜びを新たにし、人間や動植物がこの世界で懸命に生きている姿を、大きな喜びをもって見つめておられるのでしょう。もちろん時には、私達の罪深い行いに怒りを覚え、厳しく罰せられることもあります。それでも神様の喜びは消えることなく、人々が悔い改める時には喜びをもって赦されるのでしょう。
私たちは、神様の喜びによって創られました。私たちの本質は喜びなのです。自分と互いの存在を喜び、この世界がもっと喜びで満たされるように、愛の道を歩みたいと思います。
静かな十字架
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』から
映画『メランコリア』から
幼稚園の保護者の方の著作に紹介されていましたので、見てみました。「巨大惑星が地球に衝突して、地球は消滅する」という物語です。いわばSF映画なのですが、とても静かで、「芸術映画」と呼ぶべき美しい映像が連なっていました。描かれるのは、数名の主人公たちの日常生活です。前半は、絡みつくような気だるさに苦しめられ、日常生活が緩やかに崩壊していきます。後半は、巨大惑星の接近に怯えつつ、希望と絶望の中で日々の生活を送ります。世界の終焉を前に、悲しみに暮れる者と、反対に解放されていく者が、同じ小さな交わりの中で生きています。
世界滅亡の危機を描いた作品はたくさんありますが、そのほとんどが、どこかに「逃げ道」のあるものです。直前に危機を回避したり、別天地へ逃げ出したり、果ては「実は夢でした」で解決したりします。けれども今作は、どこにも逃げ道がなく、滅亡が避けられないのです。主人公だけでなく観客も不安と絶望、息苦しさを感じます。すべてが滅亡する中で、何が残るというのでしょうか。私は映画を見ながら、最後に「祈り」を感じました。全てが滅亡する中で、それこそ祈る人すらいなくなってしまう状況の中で、それでも「祈り」は最後まで存在している、そのように感じました。
私たちにとって、祈りは身近なものです。私たちは多くの場合、手を合わせ心を静め、口に出してか心の中でか、神様に呼びかけ、恵みに感謝し、願いを伝え、主の御名を通して、神様に祈りを捧げます。けれども祈りは、言葉だけでなく、何かを願望し成就を欲するだけではなく、もっと深いものです。言葉にならない叫びや呻きも、祈りになり得ます。祈りは、誰かとの、神様との、世界との、交わりです。心を他者に向けること、それ自体が既に祈りです。祈りは、様々な制約を乗り越え、存在します。行き場のない「袋小路」のことを、英語で「DeadEnd」と言いますが、祈りは袋小路にさえも活路を見出し、Deadを新たなLife(命)に変えてくれます。天地創造の際、「光あれ」の言葉の前に、神様の言葉にならない祈りがあったのでしょう。世界の終わりには、「主イエスよ来てください」の言葉の後に、アーメンの心に込めた祈りがあるのでしょう。初めから終わりまで、世界は祈りで満ちているのです。
映画『JUNK HEAD』から
「たった一人で七年かけて作ったアニメ映画」と聞いて出かけました。見てみると、製作秘話よりも、映画そのものに引き込まれました。遠い未来、人類は永遠に近い寿命を手に入れ、その分、生殖能力を失っていました。ある時、人類は、悪性のウイルスにより滅亡の危に立たされました。人々は、遠い昔に決別した「地底人」が今も子孫を増やしているという情報を聞き、深い地底に調査員を派遣することにしました。しかしそこは恐ろしいモンスターが闊歩する世界で…。 ディストピアものと言われるSFです。これはユートピア「理想郷」の反対の「暗黒郷」、絶望的な世界です。このような、絶望的な世界を描いた作品は数多く作られています。人々は、崩壊した世界の姿を見て、日常生活での苦しみや不満を晴らしているのだと思います。けれども絶望的なだけではありません。その中に、希望や喜びがあるからこそ、見る人に元気が出るのです。今作でも主人公は、地底世界で命からがらの冒険をしながら、「今まであまり感じなかったけど、生きているという感じがする」と語っています。絶望的な世界を描くことで、日頃見失いそうになっている夢や希望、命の尊さや交わりの温かさ、そして愛が、より鮮やかに輝きだすのでしょう。
聖書にも、絶望的な世界を描いている箇所は多くあります。ヨハネの黙示録やエゼキエル書、ダニエル書には、悪魔や怪物、世界や秩序の崩壊、信仰者の迫害や殉教が、多くの頁を用いて記されています。これらの書物は、教会や信仰者が、厳しい迫害を受けているときに書かれ、そして現在まで、信仰者が苦しむ時に勇気と励ましを与えてきました。これらの書物は、一見、奇異な印象を与える「けったいな」ものです。けれどもその中には、希望と救いのメッセージが光り輝いています。絶望的な文章の奥に、神様の救いが秘められているのです。私たちの世界も、様々な課題があり、絶望的に感じる時もあります。けれどもこの世界の奥に、神様は救いを備えてくださっています。絶望的な世界の向こうへと導く鍵は、愛です。
安堵と希望
ミヒャエル・エンデ『モモ』から
信徒の方から紹介されて読みました。世界的に有名な児童文学です。副題として次のように記されています。「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」。正にそのような物語です。新幹線で早くなったのに、インターネットで早くなったのに、高速道路で早くなったのに、いつまでも、忙しくて時間がないのはなぜだろう。「便利」になったはずなのに、せわしなくて慌ただしいのはなぜだろう、とずっと思っていました。この本を読んで、やっと理由が分かりました。時間泥棒に時間を奪われていたのです。そうだと分かれば、悪い泥棒と戦って、時間を取り戻さなければなりません。
この戦いに必要なのは、愛です。具体的には、まず、笑顔とユーモアです。これはなかなか難しい!「正確」で「真面目」であることが重んじられる私たちの社会では、笑顔とユーモアは、隅っこに追いやられます。物語の中で、時間を奪われた人々は、孤独感を感じ、不安に駆られます。反対に自分の時間を取り戻した人は、安堵と希望に満ちあふれます。安堵と希望は、カチカチの固いものからではなく、柔らかいものから生まれるような気がします。豊かないのちを取り戻す戦いは、決して楽ではありませんが、まずは、笑顔とユーモアから始めたいと思います。
今、世界は「環境問題」に深く取り組んでいます。これは、神様が造られたものを大事にしようとすることだと言えます。「時間」も神様が造られたものです。大切にしたいと思います。
この本を、大急ぎで読むのは、本末転倒でした。まずはじっくりと、この物語を味わいたいと思います。
京都聖マリア教会
https://sites.google.com/view/nskk-org-kyoto-stmaria/main
ともだち アニメ『宇宙よりも遠い場所』から
わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ一五・一五)
数年前に放映されたアニメ作品で、このたび再放送されました。
「宇宙より遠い場所」、それは南極です。母親が南極で行方不明になった高校生を中心に、四人の若者が南極を目指す物語です。それは困難の連続です。それでも彼らは懸命に目標を目指します。その姿に私は、またもや毎回、涙、涙です。
ある時、彼らは尋ねられます。「あなたたちは友達なんでしょ。」彼らの答えは「違う」でした。実は彼らは、人間関係にトラブルを抱えています。具体的には友達がいません。「南極に行く」との思いを馬鹿にされ続けてきた子、引っ込み思案で何一つ上手にできない子、いじめに遭い高校進学を断念した子、タレント活動で忙しい子、みんな友だちの居ない寂しさを抱えています。そんな彼らは、互いに友だちになって寂しさを埋め合う、と言うことをしません。彼らは決して性格が似ている訳でも、気が合うわけでもなく、もしかしたら仲良しでもないかもしれません。けれども同じ目標をもって共に苦労する者であり、あえて言うなら、仲間、同志なのです。
改めて考えてみれば、「友だち」とは、随分とあいまいなものです。友だちの定義とは何で、どこからが友だちか、なんて誰にも分かりません。そのようなあいまいな「友だち」に、私たちは随分と振り回されているように思います。私たちが求める理想の「友だち」は、存在しないのかもしれません。けれども振り返ってみれば、私たちには多くの、大切にすべき「仲間」「同志」がいるのです。
イエス様は私たちを、「友」と呼んでくださいます。この「友だち」も、随分と特殊なものです。イエス様は私たちの罪の贖いのために十字架に掛かり、私たちにも「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われます。そんな「友だち」なんて、聞いたこともありません。イエス様は、私たちと一緒にお茶を飲んだり、愚痴を言い合ったり、遊びに行ったりはされないでしょう。けれども私たちが苦しみ悩む時には、必ず共に居てくださいます。イエス様は「救い主」と呼ばれる友だちなのです。
訳の分からないもの。
誠実に 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』から
人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。
( ルカ 9:22 )
ブームはまだまだ収まる様子はありません。米国ではアカデミー賞に推薦されようとするほどの勢いです。自粛期間中でも日本経済をけん引してきました。子どもたちのかばんには登場人物のマスコットがぶら下がり、マスクすら主人公の着物の柄だったします。先日、道を歩いていると子どもたちが、「枯葉の呼吸!」「百の型!」とか、主人公の技を自分流にどんどん増やして遊んでいました。
名作の条件は、様々な人々が様々な立場から楽しめる、というところにもあるのでしょう。主人公のカッコよさや主人公の妹の可愛さを好む人、必殺技とアクションを楽しむ人、「鬼」が闊歩する暗い雰囲気に惹かれる人、今まであまり取り上げられてこなかった「大正」という時代に興味を持つ人、自分も同じようなマンガを描きたい人、アニメ化、小説化された作品から導かれた人、様々な人々がこの作品に出合い、楽しんできました。
私も楽しみました。アニメを見て、原作を読み、涙をズバズバ流してきました。私が惹かれたのは、「誠実さ」です。登場人物はみんな真っ直ぐです。鬼を倒す人も、倒される鬼も、みんな自分の道をまっすぐに歩みます。妥協や懐柔などは入り込みません。作品そのものも誠実です。よくある「正義の味方は負けない」という展開はありません。鬼が強い分、正義の味方も容赦なく傷つき、命を落とす者も少なくないのです。このように誠実な作品だからこそ、感動し、大きな希望を感じることができるのでしょう。
イエス様も誠実に生きられました。神様の愛の道を、まっすぐに歩まれました。十字架と復活は、誠実さのしるしです。きっとイエス様は、宣教活動の初期から、御自分の十字架を覚悟しておられたことでしょう。このまま神様の愛に誠実に生きれば、世の権力者たちと衝突することは明らかだったからです。妥協し、懐柔策に乗れば、十字架は避けられたことでしょう。けれどもイエス様は、誠実さを崩されませんでした。だからこそ、ご復活の出来事があったのです。誠実な生き方は、十字架と、そして復活へとつながります。誠実に歩みましょう
京都聖マリア教会
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